岡山の酒

岡山は古くから「吉備の国」として知られ、「」発祥の地と言われています。
万葉集 吉備のうま酒
(万葉集四巻より)
ご老人に送って頂いた吉備の酒も飲み過ぎたら困ります。ぬきす(竹で作った簾上のもの)も頂きたいです。
奈良時代に末期に編纂された、万葉集では「吉備の酒」と詠まれ、当時銘酒として名を馳せていた証だと言われています。
また、江戸時代前期に編纂された謌林拾葉集には、吉備の豊酒(とよざけ)”の記述もあります。
豊かな自然と温暖な気候風土や恵まれた水流・土壌に育まれた、吉備のうまい米に吉備のうまい酒ぜひお試し下さい。

吉備のうま酒

万葉集にも歌われた、吉備(岡山)の旨い酒を当店HPにて全国の皆様へ、また、岡山にお住の方で、岡山の酒の旨さの知らない方へどんどん旨い酒をご紹介していきます。

酒樽のイラスト

皆様は、ご存じでしょうか?戦後岡山県の清酒の生産量は全国でも五本の指に入る程の量と言われた記憶があります。晴れの国と言われる岡山の天候と、高梁川・旭川・吉井川と一級河川が3本も流れる程の豊富な水のおかげで、全国でも有数の米どころとも言われ、酒処灘の隣りの地の条件のもと、多くの蔵元が、灘の蔵元の下請けとして酒を醸してきました。

技術的には、全国トップレベルだったが、自醸酒の販売に力らを入れていなかったため、現在はあまり知られていません。過去の清酒品評会の記録を調べると、岡山の酒がよく上位に入っていました。

冨録正宗 金賞

明治37年、醸造試験場が落成し、第1回目の清酒品評会が明治40年に開催され、二千点以上の中から優等賞5銘柄の中に岡山の三角正宗が入ってたほどです。
第3回目にも三角正宗が優等賞4点の中に入っています。大正2年には、宝亀が優等賞8銘柄に入っていました。第5回には、菱本正宗。6回には○才正宗。7回には山盛、○才正宗、初日、三角正宗。翌年には笑鬼、富禄正宗、鴛鴦正宗。
腐造に耐え吟醸酒の基をきずいた明治の時代を、岡山の酒は先端を走ってた事がわかると思います。現在も、岡山県西部の備中地区では、岡山県内の大多数の蔵元があり、備中杜氏の下、今も旨し酒を醸しています。岡山の蔵元はハイレベルの酒を秘かに醸しています。そのようなお酒を当サイトで、紹介していきます。

岡山平野は米どころ

岡山の3大河川

岡山県では、高梁川・旭川・吉井川と一級河川が3本(本州では唯一、一級河川が3本流れています)も流れています。
過去の川の氾濫によって流され堆積した栄養豊な土と、豊富な水、温暖な瀬戸内の気候と、晴れの国岡山と言われるように、晴れの日が多く、全国的にも日照時間の長い地の利を考えると、昔から稲作が盛んに行われた事も想像でき、古くから酒造りが行われた事がわかると思います。

吉備路に吉備王国が栄えたのも、災害が少なく温暖な気候のもと、農耕が盛んだったこの地だからこそと言えると思います。

灘の存在

岡山県の隣の兵庫県の灘は、日本一の酒どころです。今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷は灘五郷と呼ばれます。灘五郷は兵庫県の海岸線に沿って点在していて、今でも日本一を誇っています。

灘五郷が栄えたのは、鉄分の少ない硬水で酒作りに適してると言われる宮水が、兵庫県西宮で発見され、しっかりとしたお酒が出来るようになった事と、大阪から江戸へ運行されていた、廻船の輸送日数の短縮により、木樽に入った旨い酒が品質劣化する前に江戸に着くようになった事の様です。上方から江戸へ下ることから、下り酒と言われ、高級品として重宝されたようです。

灘の蔵元は、製造が間に合わなくなると、岡山県の米どころへ良質な酒を求め、桶買い(未納税移出とも言う)と言う醸造したお酒を桶のまま買い上げて行ったそうです。岡山の蔵元は、桶売りに比重の重きを置き製造技術とともに、成長していきました。
明治40年の第1回清酒品評会で、二千点以上の中から上位5銘柄の中に岡山のお酒が入っていたことから、その頃には、先端の醸造技術も入手していたと考えられます。

 備中杜氏

松雄芭蕉が奥の細道の旅をしているころ、岡山県浅口地域の一人の男が、灘で習得した醸造技術を持ち帰って、伝承したことが始まりと言われています。喜多川歌麿が没する頃には、備中杜氏のブランドが全国で認知されていたとの事です。

備中(岡山西部~広島東部)の冬期は、農業及び漁業の閑散期で、酒作りに携わることはちょうどいい収入源だったことと、勤勉な人が多い事も影響されたのではと思います。
現在でも、備中杜氏(岡山県西南部を中心)が携わる蔵では、全国新酒鑑評会で受賞するなど、技術の高さは衰えていないようです。